2013年8月30日金曜日

その4 インドネシア と 日本 の 神話

『インドネシアは日本と世界をつなぐ"架け橋"だった』




こんにちわ。インドネシアも日本も、長いお休みが終わって、平常を取り戻しつつある今日この頃ですが、皆様、いかがお過ごしですか?

前回 は『 日本人のルーツはインドネシア人だった』というお話をしました。
縄文時代の日本には、インドネシアから黒潮にのってやってきた海洋民族が移り住んでいて、稲作を中心とした縄文文化や弥生文化を育み、古代日本の基礎を築いたという内容でした。

『では、インドネシア人のルーツは何人なの?』というお問い合わせを沢山頂戴しました。
ありがとうございます。
一般的に、インドネシア人のルーツは、メソポタミア(いまのトルコやイランあたり)に住んでいた古代ペルシャ人だといわれています。その当時は、ヒッタイト人やシュメール人といわれた人々です。世界最古で最強の文明をもっていた彼らが、インドを経由して、インドネシアにやってきたと考えられています。このお話は、機会を改めて、詳しくさせて頂きたいと思っています。

さて、今回のテーマは神話です。

日本最古の文献は、今から1300年前に編纂された『古事記』と『日本書紀』で、日本の国の成り立ちについて描かれています。この『古事記』には、はじめに「神々の物語」について書かれていますが、とても日本の神様とは思えないほど、神々の言動が陽気で、楽天的で、ハチャメチャです。

神々が「どんちゃん騒ぎ」をしながら天と地を創造した後、あとを任された日本の皇祖神・イザナギは、イザナミとの共同作業(エッチ)を繰り返して、あらゆるものを産みながら、日本の国土の基礎工事をします。

日本の大地を作くるイザナとイザナ小林永濯・画

実は、日本の神話は、日本固有のオリジナルばかりではなくて、インドネシアの神話に由来したものが多くあります。

今日は、そんなお話をしたいと思います。

●開闢(かいびゃく)

インドネシアの神話では、最高神であるバタラが、天と地と太陽と月と神々をつくります。
手が四本あって、タコにもイカにも、インドからやってきた神様らしいです。
インドネシアの大地が、あっちにいったり、こっちにいったり、海の上を漂うので、バタラは神々に命令して、インドから山を運ばせて、ジャワ島に重りを乗せていきます。
山を西に置くと、ジャワ島が西に傾き、山を東に置くと、今度は島が東に沈みそうになって、バランスをとっているうちに、ジャワ島は、東西に火山が連なる地形になったと伝えられています。

神々に命令する最高神・バタラ(左)

このインドネシアの最高神・バタラが、日本神話のイザナギのモデルになったという説があります。インドネシアの大地を造った神様も、日本の大地を造った神様も、共通して、ヤンチャで、お茶目で、気まぐれです。

そして。。。

『古事記』によると、皇祖神・イザナギが左目を洗って生まれてきたのが、天照大神(アマテラス・オオミカミ)です。
このアマテラスが孫のニニギノミコトに、天で、稲穂をわたして、日本の国造りをするように命令をします。
ニニギの名には、「日本の国に稲穂がニギニギしく実る」という願いが込められています。
この時、アマテラスは、稲穂と一緒に、三種の神器(鏡・玉・剣)をニニギに授けています。
この三種の神器は、日本の天皇家に代々伝えられ、現存しているといわれています。



一説には、このアマテラスが、インドネシアから渡ってきた邪馬台国の卑弥呼であり、渡された稲穂は、ジャワ島のジャワニカ米であったとされています。
実際に、ジャワニカ米は、沖縄米とほぼ同じで、ジャポニカ米にも似ています。インドネシアでも日本でも、神話の時代から、稲作が最も重要な文化でした。


●海幸彦と山幸彦

ニニギの子供が、海幸彦と山幸彦で、有名な『海彦・山彦』の物語の主人公です。



兄の海彦は海で釣りをし、弟の山彦は山で狩りをして、暮らしていました。
ある日、山彦は、兄から釣り竿を借りて、念願だった釣りに挑戦しました。
ところが、せっかくかかった魚に逃げられたあげく、大切な釣り針をなくしてしまいました。


どんなに謝っても、代わりの釣り針をこしらえても、山彦は怒って、決して許してくれません。
海辺で途方に暮れていると、塩の神が現れて、「海の神に相談すると良いよ!」と親切に教えてくれました。

塩の神

海彦は、塩の神に教えられた通りに出かけてみると、海の神の娘である豊玉姫がやってきました。二人はすぐに恋に落ちて、結婚します。
しばらく楽しく幸せな新婚生活を竜宮城で過ごした後で、海の神に頼んで、釣り針をくわえて逃げた魚を探して出し、因縁の釣り針を取り戻すことが出来ました。

海の神は、弟を許さなかった意地悪な海彦に呪文をかけて、しばらくの間、こらしめます。
海彦は、十分に反省して、それからは、弟の山彦を大切にしたというのが、日本の物語です。

この海彦と山彦の物語も、インドネシアが発祥だと言われています。
なくした釣り針の話は、インドネシア中の至るところで伝承されていますが、一番正確に伝えられているのが、スンバワ島のコタビマです。(バリ島の東にあります。)

コタビマの海岸

スンバワ島の王になった兄ちゃんの釣り針をなくして、怒られた弟のコマラ殿下が、魚の王様の城へ行って、釣り針を取り返してくる物語です。 怒った兄ちゃんを深く反省させるところまで日本の神話とまったく同じですが、コマラ殿下は、兄ちゃんを反省させるために死を選びます。

相手を許さずに殺してしまうのが西洋の神話ですが、最後は相手を許してあげるのが東洋の神話の特徴です。

そして、寛容ながらやや過激で残酷なところもあるインドやインドネシアの神話を、さらに穏やかでマイルドなオブラートに包んで仕上げたのが、日本の神話です。
 
そして、山彦と豊玉姫の間に産まれた子供の子供(いわゆる孫)が、日本の初代天皇となる神武天皇です。
神武が天皇に即位したのは、2673年前とされています。
「日本は世界で一番長い歴史を有する!」と、いわれる所以(ゆえん)です。

                    月岡芳年大日本名将鑑」より「神武天皇」


●因幡の白ウサギ

日本の皇祖神・イザナギの一番末の息子が、大国主命(オオクニヌシのミコト)です。
大黒様として親しまれる農業と商売と医療の神様です。
サメをダマして海を渡ろうとしたウサギを助けたご褒美に、80人もいる兄弟全員が憧れていたマドンナのスセリ姫を妻として与えられた果報者です。



ただ、子供達に『因幡の白ウサギ』の物語を聴かせるときは、スセリ姫をゲットしたお話はカットされます。(笑)

この『因幡の白ウサギ』の物語も、インドネシアが起源だとされています。

ただ、インドネシアで登場するのは、白ウサギではなくて、カンチルという子鹿です。
カンチルは子猫のような大きさの小さい豆鹿で、インドネシアの神話や童話に、数多く登場する人気者です。カンチルは向こう岸に渡りたくなって、ワニをダマして並べます。そして、カンチルは無事に向こう岸まで渡り切ります。


この『カンチルとワニ』の物語は、インドネシアで一番有名な童話です。

この物語が日本に伝えられると、カンチルは日本にいないので、白ウサギになり、ワニも日本にはいないのでワニザメになって、無事に向こう岸に渡られると含蓄のある物語にはならないので、ウサギはサメに皮をはがされて、『人をダマしてはいけません』という話に変わります。
これだけでは神話にならないので、大黒様が登場して、ウサギを助けて、正妻を娶り、子作り=国造りに励むというストーリーに発展します。

大黒様には妻が6人、子供が180人いたそうで、日本の少子化対策のシンボルになりそうな神様ですが、ご婦人からは怒られそうです。

●八岐大蛇 (ヤマタノオロチ)

天照大神(アマテラス・オオミカミ)には、スサノオという弟がいました。
スサノオは、天の神聖な御殿でウンチをしたり、暴れたりで、ヤンチャものでした。
アマテラスは、弟の暴挙に嫌気がさして、「天の岩屋」 にかくれてしまい、最後は、弟を天から追放してしまいます。

そんなスサノオでしたが、不思議なことに、地上に降りると、急に善い人になって、若い娘をさらって食べる悪い大蛇を退治して、助けた娘と結婚し、宮殿を造って、出雲の国を治めます。

スサノオ と ヤマタノオロチ 月岡芳年 作 

このスサノオと八岐大蛇 (ヤマタノオロチ)の物語も、古代からインドネシアで語り継がれているアジサカ伝説がモデルだといわれています。

アジサカは、不思議な魔法が使える身分の高い英雄で、インド方面からジャワ島にやってきました。
当時のジャワの国は、人肉を食べる王様が支配していて、人民を苦しめていました。
これを知ったアジサカは、正義感に燃え、魔法を使って、その王様を崖から海に突き落とし、ワニのエジキにしてしまいました。そして、アジサカは、悪い王様に代わってジャワの国を治めるようになります。

ところが、ワニに喰われたはずの王様は、白い巨大なワニに変身して、パワーアップしていました。
アジサカは、白い巨大な蛇を味方にして、白いワニを激闘の末に退治します。


このワニ退治のアジサカ伝説が、日本に伝わって、大蛇を退治する物語に書き改められました。


●南の海の女神 ・ ニャイ・ロロ・キドゥル



インドネシアの神話に、一番数多く登場するのが、ニャイ・ロロ・キドゥルです。
南の海に住むこの女神様は、長い黒髪の美人で、いつも緑色の服を着ています。

古代から、インドネシア各地の国王は、海の女神に忠誠を誓い、彼女の加護を得ることによって、国を安寧に治めることができました。
今日でも、ジャワの国王などは、このニャイ・ロロ・キドゥルを正妻として迎え、女神とのプラトニックでスピリチュアルな夫婦生活を続けています。現世の人間である奥様は、第二婦人です。
そのお陰で、多くの困難や苦難を乗り越えて、ジャワの王族の地位は、何百年にも渡って安泰で、ジョグジャカルタの都は栄えてきました。


また。。。

15000以上の島々を有するインドネシアでは、古代から海の事故が多発しますが、家族や知人が海で遭難すると、「海の王宮に召されて、ロロ・キドゥルの女神に仕えている!」と信じ、深い悲しみの中にもあきらめと安堵の心持ちを保つように努めます。

スマトラ沖地震の津波で家族が行方不明になってしまった弊社のスタッフも、「ロロ・キドゥルの元に召されたのだと思います。」と述べていました。古今東西、神に愛されている方々ほど、早く召されるように思います。

また、インドネシアの大人達は、「ロロ・キドゥルが海岸に人をさらいに来るぞ」といって脅し、子供や若者達が危険な海に無闇に近づかないように戒めています。

インドネシアの人を海にデートに誘うのは、野暮の骨頂で、粋ではないので、気をつけて下さいね。


このように。。。

インドネシアの人々は、ロロ・キドゥルを女神として崇め、敬い、貢ぎ物を捧げ、怖れてきました。

ロロ・キドゥルのゆかりの地を訪れる度に、竜宮城の乙姫様ではなくて、天照大神(アマテラスオオミカミ)に通じる何かを感じます。

日本の天照大神は、伊勢神宮をはじめ多くの神社に祀られ、皇室はもちろん、多くの日本の人々に信心されてきました。
お陰で、天皇家は、2600年以上にも渡って安泰で、日本の都は栄えています。
痩せても、枯れても、デフレでも、不景気でも、日本は世界の日本です。

弊社のインドネシアの事務所にも、神棚を飾り、天照大神を祀っています。お陰で弊社は、今のところ安泰です。有り難いことです。でも、明日、怒りをかうかも知れません。(汗)

ここで、一口アドバイスです。

日本の神様は、いくらお願い事をしても、絶対に叶えてくれません。
神社やお寺は、御礼や報告に参る神聖な場所ですから、世俗的な御願いをすると、逆効果です。
「神様には、今生きていることの感謝だけをして、願いごと等があれば、自分の心の中で、やるべきことを決意するのが、正しい信心です。」と、伊勢神宮にお仕えの方が教えて下さいました。

日本の三重県伊勢市にある皇大神宮正殿の画像  by N yotarou, August 2006


最後になりますが。。。

インドネシアには、日本とおなじくらい数多くの物語があって、書店にも神話や民話の絵本が、多数ならべられています。
ただ、宗教上の理由や時代の流れで、家庭や学校でも、神話が子供達に語られる機会がどんどん減っています。
また、土地土地に伝承される物語を知るお年寄りも少なくなっています。
さらに、宗教の教えや社会の道徳と矛盾しないように、古代から伝わる神話や民話の内容が変更されたり、一部が削除されたりしています。

インドネシアの神話はインドネシアの人々にとって貴重な文化ですが、日本の神話の謎を解く貴重な鍵でもあります。
文化の大切さを知る人達が協力して、こちらの神話や物語を、できるだけ正確に記して遺しておく必要であると思っています。
ご協力を賜れれば、この上ない幸いです。



今回も、ご拝読頂きまして、誠にありがとうございました。(深くペコリ)


2013年8月16日金曜日

その3 日本人のルーツはインドネシア人だった

『インドネシアは日本と世界をつなぐ"架け橋"だった』


『インドネシアは日本と世界をつなぐ"架け橋"だった』というタイトルで連載をお送りしていますが・・・。

今回は、"架け橋"をさらに飛び越えて。。。

『邪馬台国はインドネシアのジャワ島にあった』
『縄文時代の日本にはインドネシア人が移り住んでいた』
『もちろん卑弥呼もインドネシア人だった』
というセンセーショナルなお話をします。


(一)邪馬台国はインドネシアのジャワ島にあった

日本について書かれた最も古い書物は『魏志倭人伝』です。
古事記や日本書紀よりもさらに古いです。
紀元前3世紀の弥生時代に書かれたと思われます。

この『魏志倭人伝』には、「邪馬台国があって、そこに卑弥呼という女王がいて、日本を統治していた!」と、書かれています。

で。。。

「邪馬台国はどこにあったのか?」というのが、日本の歴史で最大の謎となっています。

『九州にあった!』 『沖縄にあった!』 『近畿にあった!』と,いろいろな説があります。

東洋史学者の内田吟風教授などは、「邪馬台国はインドネシアのジャワ島にあった!」と説を提唱しています。

魏志倭人伝の卑弥呼に関する記述 (書・矢田麻美)

『魏志倭人伝』には、邪馬台国の位置がごちゃごちゃと記されています。
要約すると、「南に向かって船で一ヶ月以上、さらに徒歩で一ヶ月の処に邪馬台国があって、帯方郡(韓国ソウル付近)から邪馬台国までの距離は、一万二千里(約5,000km)余りです。」と書かれています。

『魏志倭人伝』の記述の通りですと、邪馬台国は日本国内ではなくて、スマトラ島やジャワ島など、インドネシアあたりのどこかの南の島にあったということになります。
ちなみにソウルからインドネシアまでの距離は、ちょうど約5000kmです。

また、「倭地温暖、冬夏食生菜」と記されているので、邪馬台国は、一年中暖かい気候で、常に生野菜を食べていたことが分かります。
このことからも、邪馬台国は日本ではなく、温暖な南方にあったことがうかがえます。


さらに、邪馬台国=ジャバ大国と読めます。
語源は、インドの神様のシバで、それがジャバとなり、今日では、ジャワになりました。

余談ですが、アンドロイド携帯のアプリはすべてジャバというプログラムで動いています。
このジャバもインドネシアのジャワ島が起源です。

ただ、今のような国という形ができあがるのは5世紀以降です。
3世紀頃に存在した邪馬台国の本部は、ジャワにあって、邪馬台国の衛星国が、沖縄か南九州にあって、そこにジャワからカリスマ女性の卑弥呼がやってきて、日本を統治したと考えるのが現実的です。

で。。。

『魏志倭人伝』には「男子皆黥面文身」=「当時の日本人は、大人も子供も、顔や体に刺青を入れていた」と書かれています。土偶の発掘調査からも、 縄文・弥生時代の日本は世界でも有数の刺青文化を有していたことが知られています。

入れ墨状の文様を持った縄文時代の土偶

刺青は、もともとインドネシアの海洋民族が素潜りで漁をする時に、サメやウミヘビに襲われないように入れていました。
決してファッションや脅しではなく、安全な暮らしの為の工夫であり、生活の知恵でした。
伝統的なタトゥーとして世界で一番有名なのが、ボルネオ(カリマンタン)に住むダヤック族の刺青です。


胸に掘られているのがボルネオ・フラワーといって、タトゥーのデザインでは、定番中の定番です。
ナスの花をモチーフにしています。
日本のコトワザでも「親の意見とナスの花は千に一つも無駄はない」といわれるほど、ナスの花は、神秘的な生命力と繁殖力を秘めています。

また、腕や足には、サソリや龍の刺青を入れていました。
縄をモチーフにした刺青も今日でも多くみられますが、このデザインを土器に施したのものが、縄文式土器だとも考えられます。

そして、『魏志倭人伝』には、「朱丹(赤い染料)を身体に塗っていた」と,記されています。


これはヘナという植物の染料で顔や手足に模様を描く東南アジアに古代から伝わる風習で、今日でも,結婚式では、花嫁がヘナのタトゥーを施します。
また、天然植物のヘナで髪を染めると、髪を痛めずに、色落ちもしないので、現在の日本では、白髪染めとしても人気があります。



(二)縄文時代の日本にはインドネシア人が住んでいた

『浦和一号』のお話をします。
 
ちなみに、『浦和一号』は、南極一号の類似品でも、埼玉のゆるキャラでも、レッズのマスコット人形でもありません。

1988年に埼玉県浦和市で発見された、約5900年前(縄文時代前期)の人骨の名前です。

この『浦和一号』の頭蓋骨から、ミトコンドリアを取り出して、DNA鑑定をしてみると。。。

現代の日本人は、『浦和一号』のDNAと、とても近い配列なのですが、完全には一致しませんでした。

アフリカ人や欧米人は、まったく異なりました。

そして、アジア人を調べてみると、現在のインドネシア人とマレーシア人のDNA配列が、『浦和一号』のDNA配列と、ピッタリと一致しました。


また、日本の縄文人と今日のインドネシア人は、歯や骨の形も、ほぼ一緒だということが分かっています。

このことから、縄文時代には,日本の関東にまで、マレー・インドネシア人がやってきて、移り住んでいたことが分かります。

また、現代の日本人が、『浦和一号』のDNAとやや違うのは、縄文時代以降に、弥生渡来人といわれる北方からの民族が日本にやってきて、混血化が進み、今日のような雑多な日本民族が形成されていったと考えられています。

この『浦和一号』という縄文人は、日本人のインドネシア起源説を証明したといって過言ではありません。
日本人のルーツは、インドネシア人だったのです。

ただ。。。

中韓が大好きな左翼リベラルのマスコミや学会の先生はもちろんですが、
保守といわれる人達も、日本人のルーツがインドネシア人であることを、認めたがりません。

何故なのでしょうね。



(三)もちろん卑弥呼はインドネシア人だった

今から、約7万年前は、氷河期の最後で、海面が下がっていたので、現在は一万五千以上あるインドネシアの島々は、ひと続きとなって、『スンダランド』と呼ばれる大きなひとつの陸地でした。

緑の部分が大陸棚で、七万年前は陸地でした。

インドから、ミャンマーやタイを通って、ジャワやバリにも陸続きで行くことができました。
この時期に、アフリカから、中東やインドを経由して、多くの新人類(ホモ・サピエンス)が、インドネシアにやってきました。

その後、海水面が上昇して、東南アジアは、今と同じような島々に分かれました。
大陸が島々に変わると、海に潜って、魚やアワビを獲って暮らす人々が徐々に増えていきました。
インドネシアの海洋民族の誕生です。

インドネシアという名前ですが、「インド」に、ギリシア語で「島々」を表す「ネシア」をつけたもので、「インドの島々」という意味です。

インドネシアの海洋民族は、丸木舟やイカダ舟で黒潮に乗って北上し、アジア各地に移住・拡散していきました。
そして、琉球列島にまで到達した人々が、日本列島をさらに北上し、日本の縄文人になったと考えられています。

もちろん。。。

『魏志倭人伝』に登場する邪馬台国の女王・卑弥呼もインドネシアの海洋民族の出身です。

卑弥呼は、北方の中国や韓国から渡来したと唱える学者は少なくありませんが、当時の航海術から考えて、遙か南方にある邪馬台国に、黒潮に逆らって北方から女王がやって来られる可能性は、ゼロに近いです。

ところで。。。

『魏志倭人伝』によりますと、卑弥呼はきわめて宗教的な存在でした。
今日でいいますと、沖縄の女司祭である『ノロ』のような存在だったと考えられています。

沖縄のノロ 岩波書店「沖縄文化の遺宝」より 1935年

特殊な才能をもった霊能者で、神々と交信することができ、神と人間の仲介役でした。
そして、国や人々の運勢や吉兆を占ったり、災厄を払ったり、病気の人を治したりすることが出来ました。


神様の意志を敏感に感じ取ることができるのは、男性よりも、むしろ感受性の強い女性です。

卑弥呼の死後、卑弥呼の代わりに男性の国王が位に就くと、国民の信用を失い、国が大いに乱れた、と『魏志倭人伝』には書かれています。
男性では、神々との交信が出来ず、当時の国王としての役割を果たすことができなかったようです。


卑弥呼には、沖縄のノロのように、しばしば、その身に神が取り憑いて、卑弥呼自身が神そのものになったようです。

なので。。。

卑弥呼は天照大神(アマテレスオオミカミ)だったとする説が、とても多くあります。
卑弥呼も、天照大神も、信仰の対象で、弟が一人いて、生涯独身だったという共通点があります。

『魏志倭人伝』には卑弥呼の装束に関する記述はありませんが、ノロの装束や世界の各地のアニミズムから想像すると、神が憑依しやすいように、白装束に冠をして、勾玉の装身具を着けていたと、考えられます。

また、『魏志倭人伝』には、卑弥呼が『三種の神器』のひとつである銅鏡をもっていたことも記されています。


卑弥呼は、軍事力よりも、その神秘的な能力で、人々の畏怖と尊敬を集め、日本を統治したカリスマでした。
同時に、卑弥呼を輩出したインドネシア系の海洋民族は、メソポタミア(現在のイラン・イラク付近)の出身で、鉄の精錬など、高度な技術と文化をもっていました。
特に、稲作と航海術と武器製造の技術は、当時の日本を治め、繁栄させる上で、大いに役立ちました。


卑弥呼の時代には、丸木船ではなく、全長30m、幅3m、漕ぎ手40人、時速3ノット(6km/時)くらいの大きな船になっていたので、南方からより多くのインドネシア人がやってきて、日本に移り住んだと思われます。



今回は、邪馬台国はインドネシアのジャワ島にあって、日本人のルーツはインドネシア人で、もちろん卑弥呼もインドネシア人だったというお話をしました。

ゴーギャンが描いた 『 われわれはどこから来たのか われわれは何者なのか われわれはどこへ行くのか 』 とい うタイトルの有名な絵があります。
『日本人はどこから来たのか』と『日本人は何者なのか』が分かれば、これから『日本人は誰とどこに行くのか』がおのずと見えてくると思います。

今回もご拝読頂きまして、ありがとうございました。(深くペコリ)




2013年8月3日土曜日

その2 独楽 (こま)

『 インドネシアは日本と世界をつなぐ"架け橋"だった 』


皆さん、『 断食明け大祭 』おめでとうございます。

長かった断食月も終わり、これから、ご帰国やご旅行をされる方も多いと思います。
どうぞ気をつけてお出かけ下さいね。

このコーナーでは、古代世界の文明や文化を日本に伝えてくれたのは、北の中国人や韓国人ではなくて、実は南のインドネシア人だったというお話をさせて頂いています。

本日は、独楽のお話です。
独楽は、世界最古の『おもちゃ』と言われてます。

「 独りで楽しむ 」。。。 と、書いて『コマ』 と 読みます。

なかなか意味深な名前のおもちゃです。(笑)

ジャカルタの独楽

それはさておき。。。 

世界最古の独楽は、紀元前2000年頃の木製の独楽がエジプトで発掘されています。
それ以前の紀元前3500年頃には、メソポタミア(現在のイラクあたり)の子供達が土製の独楽を回して遊んでいたようです。

そして、メソポタミアに住んでいた古代ペルシャ人の船乗りが、インドを経由し、インドネシアにやってきて、独楽を伝えました。
インドネシアの気候は熱帯雨林ですから、木材が豊富です。
独楽の材料が沢山ありました。
また、インドネシアに住む人々は、古代から今日に至るまで、好奇心が強く、手先が器用で、工作が大好きだったので、この地で、独楽は急速な発展をとげました。

ロンボックの独楽 (Wikipediaより)


インドネシアのそれぞれの土地土地や島々では、様々な独楽が作られました。


素材も形も色彩も、地方ごとに違います。南国なのでとてもカラフルな色合いです。

特に、カリマンタンとスマトラにユニークな独楽が集中しています。


鉄木やマホガニーやチークなど、高級な木材で作られているモノもあります。


インドネシアにはあまりにも多種多様な独楽が存在するので、
『独楽の発祥はインドネシアではないか?』とする説が根強くあるほどです。


こちらの独楽の回し方も色々です。

押したり、引いたり、投げたり、叩いたり、もんだりします。


独楽はかなり乱暴な扱いを受けてます。(笑)


遊び方も色々です。

喧嘩させたり、陣地を奪いあったり、回っている時間を競ったりします。

インドネシアには、独楽の協会まであります。
公式のルールブックを発行して、細かいルールと審判方法を規定しています。
独楽に、ここまで入れ込んでいるのは、おそらくインドネシアだけです。
子供以上に、大人が真剣に独楽を回しているのも、インドネシアが一番です。

独楽の土俵で、チョコ握りの臭いがすることも、たまにあります。


また。。。

また、インドネシアでは、独楽は縁起モノでもありました。

米の倉に飾って豊作を祈願したり、結婚式などの前の日に軒先に吊して、『明日天気になあれ』と好天を祈りました。(テルテル坊主のようです。)

一年飾った独楽は、焼いて「お焚き上げ」をする風習まであったそうです。

そして。。。

これがジャワ島の独楽です。



インドネシアを旅すると一番多く見かける独楽です。


竹で出来ていて、とても軽いです。
胴体に穴が空いていて、回すと「ウォーン」と唸るので、『鳴り独楽』ともいわれています。
この音で悪霊を追い払うのだそうです。



そして。。。

こちらが、宮崎県名産 の 『 神代独楽 』 です。


宮崎県では、今でも5月5日の子供の日に魔除けとして飾っています。

色と模様こそ違いますが、ジャワ島の独楽とまったく同じです。

この独楽は韓国や中国から伝えられたと思っている宮崎の人も多いです。
でも、もともと竹は熱帯の植物なので、当時の韓国や中国に竹は棲息していません。

『 神代独楽 』は、間違いなく南のインドネシアから伝えられたものです。

その他、南九州にはインドネシアから伝えられた独楽が沢山のこっていて、今でも各県で民芸品として作られています。
日本全国各地で、独楽が作られていますが、種類の多さでは、南九州や西九州が断トツです。




インドネシアから伝えられた独楽は、日本の宗教と文化の発展にも、とても大きな役割を果たしました。

インドネシアと同じように、昔から日本でも独楽は、『神事』でした。

海老一染之助・染太郎の『今日はいつもより余計に回しています』の曲独楽(きょくごま)は、本来、神社で奉納されるものです。
太神楽(おおかぐら)と呼ばれます。

「戦前まで、独楽の曲芸師が全国各地を巡って、お伊勢参りに行けない土地の人達のために、曲独楽を披露して、神宮の御札を配り、神主さんに代わって祈祷もしてくれたんだよ。」と、うちのおばあちゃんがよく話してくれました。

お正月に子供が独楽を回す風習も、一年の無事を感謝して、神様に捧げた『神事』です。


そして。。。

世界から伝えられた文明や文化をそのまま受け継がず、改良に改良を重ね、洗練を尽くし、至高のレベルまで極めてしまうのが日本人の技術者気質です。

メソポタミアで生まれ、インドネシアで花開いた独楽の文化も、例によって、日本で極められ、昇華しました。

日本の独楽職人が、素材を厳選し、無駄を省き、バランスを高め、摩擦と抵抗を減らし、ブレずに、いつまでも回り続ける独楽を次々に編み出しました。

日本刀の刃や扇の上を渡るようなミクロン単位の精度の高い独楽は、さすがはメイド・イン・ジャパンです。

    これは弊社のインドネシアの工房で作ったジャカルタ独楽です。 よく回ります。

ちなみに、独楽の回転時間の世界最長記録は、日本の森偉之輔さんがもつ1時間21分35秒です。
もちろんギネスに登録されています。
驚異的な記録です。

そして今日でも、独楽造りの日本の技術は、回転体である工作機械や産業ロボットや精密機器をはじめ、宇宙工学にまで応用され、生かされ、人類に多大なる貢献をしています。


『 インドネシアは日本と世界をつなぐ"架け橋"だった 』の第二回をおおくりしました。

第三回目は。。。

「邪馬台国はインドネシアにあった」
「日本人のルーツはインドネシア人だった」
「もちろん卑弥呼もインドネシア人だった」
の三本立てでお送りする予定です。

只今、撮影快調!執筆順調!です。(笑)

でも、『面白くない』という不評なので、この連載が短期で終わってしまいそうな予感もします。

コマった。。。コマった。。。

という、しょうもないオチでした。 (汗)


今回も御拝読頂きまして、誠にありがとうございました。(深くペコリ)

2013年8月1日木曜日

その1 クリス

『 インドネシアは日本と世界をつなぐ"架け橋"だった 』


皆様、こんにちわ。

東南アジア の文化人類学 を 研究している 写真家 の ジャイアン です。
インドネシアのジャカルタに20年近く住みながら、アジア各地を巡っています。

これまで 私達は、『 日本の文化は中国や韓国から伝えられた』と教わってきました。

でも、色々と調べていくうちに、北の大陸ではなく、南の島々から伝えられた文化も同じくらい多いことが分かってきました。

そして、こちらの文献を調べていくうちに、世界で最初にメソポタミア(現イラン・イラク・トルコ )で 生まれた文明を日本に伝えてくれたのは、インドネシアあたり に住んでいた海洋民族だということが分かりました。

メソポタミアに住んでいた古代ペルシャ人が、世界最古で最先端の文明をもって、インドを経て、インドネシアにやってきました。
そして、インドネシアの人々が、黒潮に乗って島伝いに北東に上り、沖縄や九州南部にやって来ては、私達の祖先にメソポタミアの最新技術を伝えてくれました。

南方ルート (海のシルクロード)
             
また、日本人は、中央アジアやモンゴルの北方の血だけでなく、中東やインドやマレーの南方の血も入った混合民族ですが、それ以前の古代に日本人のルーツに大きな影響をもたらしたのが、インドネシアの海洋民族です。

 ボロブドゥール遺跡の壁画に描かれた航海の図 (出典:Wikipedia)

日本語の発音や語彙は、インドネシア語などの南方言語と共通点が、とても多いです。
『古事記』や『日本書紀』などに登場する神話も、まったく同じ物語がインドネシア などの南方に古代から伝承されています。

インドネシアの衣食住をはじめ、芸術・道徳・宗教をみていると、世界の文化がどのような形で日本に伝わり、日本人が世界の文化をどのように吸収し、独自の日本文化に育てていったのか?! が分かってきます。
そして、最東端の日本で 昇華された日本の文化や技術が 、今日では世界中の人々の豊かさに貢献しています。

この20年、インドネシアの人々の写真を撮りながら、東南アジアと日本の文化の関係について研究 してきました。
そして、各方面の学者の皆さんのご協力を得ながら、検証と訂正を繰り返しています。

そんな折、こちらの情報誌に連載の機会を頂戴しましたので、『 インドネシアは日本と世界をつなぐ"架け橋"だった 』と題しまして、これまでの研究の一部をご紹介させて頂けたらと思っています。

日本とインドネシアは、共通の主食・文化・価値観・道徳・言語をもつ最友好国です。
そして、両国は、中東やオセアニアを含めたアジア全体の発展に、とても大きな役割を果たす最重要国です。


この情報誌 と この連載 が、インドネシアと日本の人々の交流の「架け橋」にもなれば。。。と切に願う次第です。




では。。。

 第一回目 はクリスのお話をします。


紀元前1000年頃、メソポタミア(現イランとトルコあたり )では、銅や鉄の精錬が盛んでした。
そして、この精錬技術が、メソポタミヤからインドやインドシナ半島を経て、インドネシアに伝わりました。

今も当時のままの製法で作られているのが、ユネスコの無形文化遺産に登録されたインドネシアの短剣・クリスです。

クリスは、ジャワ語で『刺す』という意味です。

熟練した刃物師が、いくつもの鉄鉱石やニッケルを何十層にも重ねて作ります。
なので、刃に鉄の層の「波紋」がみられます。
完成までに数年を要した名刀もあります。

また、クリスは、左右非対称の独特の形をしていて、蛇のように曲がりくねっているので、『蛇行剣(だこうけん)』 と呼ばれます。
当時のインドネシアでは、インドの影響で、蛇を『神の使い』として崇める風習があったようです。

クリス (出典;Wikipedia)

クリスで斬られた傷口は、縫合することができないので、武器としても優れています。

ただ、一般的には式典の時に、神聖な祭礼装飾品として身につけられ、地位や勇気の象徴として、先祖代々、大切に受け継がれています。
女性も結婚式などの時に身につけますが、女性用はやや小さめです。

クリスの着け方 (出典:wikipedia)

クリスにまつわる神話も多く遺されていて、インドネシアには『アジサカ王子と白ワニ』という、日本の『八岐大蛇(ヤマタノオロチ)』と同じような物語が伝えられています。
                               
アジサカ王子 と 白ワニ


クリスは神秘的な力を持つモノも多く、このように堅い床の上に立ちます。

(信じられない方はYouTubeで検索してみてください。)


希に、自然に回転をするクリスもあります。



 
                                                 
なお、刀には怨念が入りやすく、子孫以外が所有すると、不吉なことも起こりやすいので、素人は骨董品のクリスに手をださない方が無難です。

(ちなみに、私の実家は古物商です。)

熟練の刃物師が減って、いわゆる名刀は希少になっていますが、クリスを購入する場合は、できるだけ良質な新品を探して下さいね。



この蛇行剣のクリスが、日本の古墳時代の遺跡から多く出土されています。
半数以上が南日本で発見されていて、宮崎県の9古墳9本が最多です。
また中部・近畿をはじめ関東や東北でも出土されています。

このことから。。。

航海術にすぐれたインドネシアの海洋民族が、黒潮に乗って、小さな島伝いに北上し、沖縄南部の諸島を経て、鹿児島や宮崎に上陸して、クリスを日本に伝えたと考えられています。

そして、南方の諸島からやってきたインドネシアの人々は日本に定住しましたが、桜島が噴火する度に、難を避けて東へ東へと移り住んだので、日本全国にクリスが広まったという説が有力です。



今日でも、沖縄出身のアイドルはインドネシア人にそっくりです。
また、インドネシア人のアイドルの多くは、日本人そっくりの顔立ちです。

本州にも、南方系の顔の方も多いですが、クリスと共に、インドネシアからやってきた海洋民族のご子孫なのでしょう。


話はそれましたが。。。(汗)

インドネシアの海洋民族が日本にもたらしてくれたクリスの製造技術は、日本の鍛冶屋に受け継がれ、「折れず、曲がらず、良く斬れる」日本刀が生みだされました。

その後、日本は世界一の鉄の鍛造技術を誇るようになり、自動車部品をはじめ、安くて丈夫で精密な鉄鋼製品を作り続けて、世界中の人々の豊かな生活に貢献しています。

と無理矢理、まとめてみましたが。。。(笑)


『 インドネシアは日本と世界をつなぐ"架け橋"だった 』の第一回をおおくりしました。

次回は『邪馬台国の卑弥呼はインドネシア人だった』という内容でお届けしたいと思ってますが、タイトルが過激すぎるので、ボツにされるかもしれません。(笑)

この度は、ご拝読頂きまして誠にありがとうございました。(深くペコリ)